「私のトライアル人生?とその心象風景」

連載第2回
                            川端 ヤストラ
草野心平の、富士と春と子供たちの情景をうたった詩はいい感じですね。

子供の廻す縄跳びの中の輪の中に富士が入ったり出たり。そのたびに富士が

小さくなったり大きくなったりする

面白さと春の情景や空気が感じられますね。中学校や高校時代に

国語時間で接して、以来なぜか心に残ってしまった。

話変わって2015年11月号の自然山通信で

相模川クリーンアップトライアルが終了する話を読んだ。

僕が初めてトライアルの原点みたいなこの大会に参加したのは何年か前だった。

ワクワクウキウキドキドキしながら走ったことを思い出す。

少し風の強い新春の快晴の日だった。川の支流みたいところを渡ったところで振り

返るとすがすがしい丹沢の連山が見えた。その時に思ったのか、あとでそう思った

のか覚えていないが、以来その時の情景とこの草野真平の詩の情景とが重なって

見えてしまうのである。トライアルをやりながら詩文を思い出すことなど僕にはない

ので、このことは心に強く残っている。


            富士山

                         草野 心平

川面(かわづら)に春の光はまぶしく溢れ。

そよ風が吹けば光りたちの鬼ごっこ葦の葉のささやき。

行行子(よしきり)は鳴く。

行行子の舌にも春のひかり。

土手の下のうまごやしの原に。

自分の顔は両掌のなかに。

ふりそそぐ春の光りに却って物憂く。

眺めていた。

少女たちはうまごやしの花を摘んでは巧みな手さばきで花輪をつくる。

それをなわにして縄跳びをする。

花環が円を描くとそのなかに富士がはいる。

その度に富士は近づき。とおくに坐る。

耳には行行子。頬(ほほ)にはひかり


連載第1回
                                  川端ヤストラ

MFJ公認のある大会に参加して思い通りに走れなくて凹んでしまったことがある。

その時はつくづく因果なモータースポーツを始めたもんだと思った。

しかし帰りのトランポのなかで、「よし!次回はリベンジだ」と

熱い思いがこみ上げてきた時には、そう思う自分が嬉しかった。

又、それより以前(少し昔)になるが転倒して小さなけがを負った事がある。

その時は一応、病院のお世話にはなった。

それでトライアル仲間に「滝沢さん、もうバイク乗るの怖くなった!?」

と聞かれた。

僕は「治ったらまた乗る。ぜんぜんやめる気ない」と心から思ったのでそう答えた。

その時、学生時代に通学電車の中で読んだある外国作家の確か

「くじけぬ男(女でも意味は同じと思う)」という題名の短編小説を思い出した。

確かあらすじはこうだった。

歳のいった闘牛士の男が病院から退院する(闘牛だからスペインだろう)。

その男は闘牛を仕切る男やかっての仲間の反対を押し切って闘牛士(マタドール)

として闘牛場の舞台に立つ。

見事な技を披露できないときは引退するという約束を仲間にとらされて・・・

彼の強引な猛牛相手の挑戦は大けがをして医務室に運ばれる結果となる。

手術台の上のケガをして弱った彼はかっての仲間であり友人に

「うまくいってたんだ・・・」とつぶやき闘牛士(マタドール)として

再び闘牛場に立ちたい意思をあらわす。おおかたのあらすじは確かこんなだった

ように思う。

読んだ頃の小説上の人間模様や牛との格闘の生々しさや、怪我を負って手術され

る状況でもマタドールとして立ちたいという情熱に迫力を感じた。歳を取ってもこのよ

うに体を張ってやろうとするこだわりみたいなものに

当時の僕はとても同感できなかった。

僕が歳を取ったらもっとのんびりでまったりとした人生を送りたいものだと考えてい

たのである。しかし、この主人公の気持ちを無視する気持ちになれない今の自分を

発見して少し驚いている。

「くじけぬ男」という題名だけの表層的な部分だけではあるが自分にも同じようなとこ

ろがあるかもしれないと思い始めている。今再び(およそ47〜8年ぶりくらいで)この

短編小説を読めばそのころ感じることのなっかた人生や生きていく有様についての

理解や矛盾をより深く読み取り感じることが出来るのだろうと思っている。

優れた短編小説の題名だけをお借りしての思い出話で恐縮ではあるが、僕たち多

くのトライアルライダーはくじけぬ男(女)とか敗れざる者とかの領域に含まれている

のだと思う。そしてもしかするとそれは僕たちのプライドなのかもしれない。
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